「人生になぜ哲学が必要か」
芳村思風 「致知」2002年12月号より
人生を自分のものとして生きるために、
人生をより幸せに生きるために、
哲学という学問はある。
理性能力を手段として使い、
命から湧きあがる感性の真実を原理にして生きる。
その体系化こそが21世紀という新しい百年を生きる人間的基盤となる。
●なぜ人生に哲学が必要なのか?
1.理想に燃えて人生を生きるため
人生を自分のものとして、生きていこう、自己実現の人生を
生きようと思ったら、理想・理念がなければなりません。
そうでなければ、現実に流され、因果のしがらみにからめとられて
しまうのが人間です
真実を探究することによって理想・理念を語るのが哲学の
社会的存在価値です。
だから哲学は、人間がともすれば現実に流され、からめとられがち
になる因果のしがらみを断ち切る力になります。
2.理性という能力を使って心の納得を追及するため
人間は理性という能力を持っています。
理性は、物事の根拠を納得いくまで追求しようとします。
哲学は根源への思索であり、根源からの思索です。
3.もっと幸せになるため
もっと幸せになりたいという人間しか持つことのできない欲求、
幸福欲の実現のためです。
哲学は、どうしたら幸せになれるのかを考え、その努力を通して
発展してきました。
その意味で、哲学なしには、幸福を手に入れることができない、
ということができます。
幸福を手に入れるための2項目
①世界観の哲学を持つ
現在より良い社会・環境をつくること。
自分を包み込むより大きな世界のより良いあり方を求める。
それには、「世界観の哲学」を持たなければならない。
②人生観の哲学を持つ
外部世界の変革だけでは幸福になれません。
内部世界の変革を遂げなければなりません。
自分自身のより良い生き方を求めていくことが不可欠です。
4.すべての存在の意味を問うこと
この宇宙に存在するすべてのものは、ただ単独でそこにあるの
ではありません。互いに影響し合い、互いに関係性をもって
存在しているのです。
すべてのものが関係性を持って存在しているなら、そこに
「意味」が出てきます。
5.選択力をつけるため
人間が真剣に生きていこうとするならば、まず、「どういう
ものが存在しているか」という事実を問い、そののちにそれらの
事実から何を学び取るかという選択力が必要になります。
選択力とは、決断力でもあります。
●事実を探究する科学・意味を探究する哲学
哲学とは何か?
学問は、「哲学」と「科学」に分かれる。
科学的知識を根底にして、その真理をどのように現実に役立てるか
そのさまざまな科学技術が理系といわれる領域のいろいろな学問に
なっています。
哲学的な真実の探究を根底にした理想・理念をどのように現実と
結びつけ、実現していくかという方法論、言ってみれば哲学技術
理念技術が文系といわれるいろいろな学問を構成しています。
理性という能力を持つ命からしか出てこない2つの欲求
・「もっと良く知りたい」という欲求と「もっと幸せになりたい」という欲求
認識欲と幸福欲と呼ばれます。
知識欲に応えるのが科学・サイエンスであり、幸福欲に応えるのが哲学
フィロソフィです。
人間が真剣になって本当に生きようと思ったら、存在の事実、現実の中に
どういう事実が存在するのかをどうしても知りたくなる。
その追求を担うのが科学です。
事実と事実の関係性の中から出てくる意味を価値判断し、何を選び取るか
が要求されます。その追求を担うのが哲学です。
・「現実は、事実と意味から成り立っている」
「現実」の「現」は時間、「実」は空間を意味します。
時間と空間。これが現実を構成する基本要素です。
●科学は発見し、哲学は創造する
科学は現実の中の事実を対象とし、現実の世界に存在する物事の構造と
法則を真理として探究します。
哲学は現実の中の意味を対象とし、現実世界に存在する物事の本質と
理念を真実として探究します。
その探究は、科学が理論・セオリーを方法とし、哲学は論理・ロジック
の方法を用います。
・理論と論理はどう違うか?
理論とは「真理はひとつ」という考え方のもとで使われる方法論。
真理はひとつという考え方は、「事実は変化しない」という大前提が
根底になっています。
事実は変化しないのだから、事実に照らし合わせていけば、どれが
正しいかすぐわかるということになる。
その理論が限界に達して、真理はひとつという考え方ではどうにも
ならないという状況になったときでてくるのが、「論理」です。
・宇宙はエネルギーバランス
宇宙はプラスのエネルギーとマイナスのエネルギーがお互いに
バランスを模索しながら形成されている。
前と悪・美と醜・真と偽・表と裏・前と後ろ・光と影・・・
すべてが対の構造になっている。
真理はひとつという科学的な考え方・理論では現実に対応すること
ができません。
人間社会は、性格が違う人・人間性が異なる人・考え方が違う人・
立場が違う人・宗教が違う人が共に生きていかなければなりません。
それが人間の現実であり、社会の要諦です。
そこでは真理はひとつという理論の能力は通用しません。
理論では必然的に対立が生じます。理論を超えた力が要求されます。
それが論理であり、愛なのです。
愛の論理は、理論を超える力です。
理論よりも論理の方が高次元であり、真理よりも真実の方が高次元の
理性の使い方であります。
「科学」・・・理論を武器として現実の中の事実を対象にし、その構造や法則
という真理を探究する。その方法は実証的。
すでに存在する事実を解明・探究する発見的な学問である。
事実には、過去と現在しかない。
未来に対応する能力はありません。
「哲学」・・・論理を武器として現実の中にある意味を対象とし、その本質と
理念という真実を探究する。その方法は論証的。
論理とは物事の解決の仕方です。
未来に対応するには理想や理念の創造が必要となる。
これを担うのが哲学である。哲学は創造的な学問である。
哲学は事実に拘束されることなく、新しい事実・新しい世界を
創造します。
哲学と科学は互いに協力し合いながら、現実から理想へという人類の
生き方に貢献する。
時代は今21世紀という新しい百年に入ったが、理想が語られることが少ない。
政治でも経済でも、理想に燃えてそこに向かおうとする姿がほとんど
見られません。
「こういう素晴らしい世界をつくろう」「こういう美しい日本をつくろう」
と理念理想を掲げ、人類に夢と希望を与え、幸せに導いていこうとする
姿勢のなんと乏しいことでしょう。
事実を根拠に真理を語るという科学的思考に理性が偏ってしまっている。
その結果、事実に拘束され、事実に狭められ、事実に支配されてしまって
過去と現在しか見えなくなってしまっているのです。
未来を見る力を失ってしまっているのです。
●理性の支配を脱却し、感性の本質に立つ
科学は「真理はひとつ」だといい、変化しないものの中に真理を発見しよう
としてきました。しかし、科学の歴史をたどれば、真理もまた変化してきて
いることに気づきます。
人類は変化しないことには耐えられないのです。変化を常に作り出すことこそ、
生きるということの最大の目的ではないのか。
あらゆるものを固定化するのは理性です。
変化を要求するのは、感性です。
科学も哲学も、感性を原理として、現実のあらゆるものに対応していかなけれ
ばなりません。
「感性論哲学」を創造した原点はそこにあります。
あらゆるものを固定化するのは、命を殺すこと。
あらゆるものを変化しないようにするのは、現実を抹殺すること。
現実は根底から変化しています。
だからこそ、我々は新しい原典の創造に意欲を燃やさなければなりません。
人間にふさわしい生き方をしようとするならば、人間であることに徹さなければ
なりません。
人間は人間でないものになってしまうような目標を持ってはならないのです。
いまこそ我々は、人間であることに喜びと誇りと自信を持って、人間であること
に徹する生き方を求めなければならないのです。
すべてのものの本質と理念、つまり真実が変化であるならば、人間の本質は
理性ではなく感性です。
人類は早く理性の奴隷から脱却しなければなりません。
自分と同じ考え方の人間しか愛せないのは、理性の奴隷になっているから。
自分しか愛せないというと同じこと。
愛という能力は、命が他者を愛するために作ったものです。
自分しか愛せないのは偽物の愛です。愛の堕落です。
男女には異質性が山ほどあります。
夫婦はもともと他人です。異なる時間空間の中で成長し、生きてきました。
それが生活を共にすれば、さまざな違いが目につきます。
だが、違いがあっても共に生活していかなければならないのが夫婦です。
そのためには、理屈を超えた力が必要です。
それが他者、自分とは異なるものを肯定する「愛」の能力なのです。
子供は常に新しい時代をつくることを使命として生まれてきます。
子供は親を超え、大人を超えていかなければなりません。
そのために、命は第一反抗期・第二反抗期といった自然に出てくる成長
過程を用意してさえいるのです。
理性に支配され、理性の奴隷になっている今の大人は、自分と同じ考え方の
人間しか愛せませんから、子供に素直さと従順さを要求します。
子供が大人と違う考え方になることを許しません。
本当の意味で、大人が子供を愛せなくなっているのです。
人間の本質は理性ではない、感性であるということを、今こそ叫ばなければ
ならないのです。
●幸せに生きるための根拠となるものは・・・
人間の幸せとは何か。
自分がしたいことをすること。
自分がしたいことをやり遂げ、成功すること。
成功の秘訣は途中でやめないことです。
結果が出るまで、最後までやり遂げることです。
・そのために必要なことは何か。みっつあります。
①他人に迷惑をかけないこと。
他人に迷惑をかけていたら、自分がしたいことも邪魔されて、最後まで
やり遂げることができないからです。
他人に迷惑をかけないためには、多くの人のことを考えなければなりません。
みなに共通するものを作り出す能力・普遍性を備えた理性の力が要求されます。
そこに生まれてくるのが倫理道徳です。
倫理道徳は自分がしたいことを最後までやり遂げるために作り出された最低限
の方法であす。
人間の幸福の原点は、自分がしたいことを最後までやりとげることです。
そこに人間の最高の幸福があります。
そのために倫理道徳はつくりだされました。
その倫理道徳がしばしば、自分を支配し、自分を規定し、自分を縛るものとして
作用してきます。命から湧いてくるものを抑圧します。
命から湧いてくるものがない人間に何ができるでしょう。
命から湧いてくるものがあってこその人生です。
命から湧いてくるものは、感性です。感じてこそ人生です。
命から湧いてくるものに導かれて、自分がしたいことをやり遂げる。
②理想が不可欠
理性のどれになっていると、どうしても理想を頭で考えてしまいます。
理想は命から湧いてくるものでなければなりません。
自分の人生を生き抜こうと思ったら、命から湧いてくるのもを持たなければ
なりません。
欲求がある限り、人間はどこまでも行動していくことができます。
欲求は、まだ実現されていないものですから、欲求こそ命が喜ぶ理想・目的
となるのです。
③どんな困難も乗り越えていく不撓不屈の意志
不撓不屈の意志は、欲望の強さによって決まります。
本当に意志の強い人間とは、理性的な人間ではなく、欲望の強い人間です。
欲望は、理屈を超えたものです。だから、欲望の強い人間、意志の強い人間は
理性的な人間ではありません。
意志の強さには、理性に作り出せるものがあります。
それは、何かを我慢するという種類の強さです。
我慢できない人間はだめな人間、我慢できる人はりっぱな人間という価値観
があります。
この種類の意志の強さでは、なにが何でもやり遂げるという不撓不屈の意志
にはなりません。
不撓不屈の意志というのは、どんな困難でも乗り越えていくと言うものです
から、理屈を超えたところに根拠がなければなりません。
理屈抜きの意志の根拠とは、命から湧いてくる欲求・欲望・興味・関心・好奇心
の強さです。
これこそまさに感性そのものなのです。
感性を鍛えること。
感性の本音と実感を磨き成長させること。
感性を大切にして、自分に正直に生きること。
人生を自分のものとして生き、より幸せに生きる哲学の基盤となるのです。
※「致知」 2002年12月号『特集・人生になぜ哲学は必要か』(芳村思風)より